Home5.覚書

覚えておきたい、いい言葉があるもので。

孤掌難鳴(こしょうなりがたし) 
昔、組合の飲み会で小笠原の浅沼さんに教えてもらったとても好きな言葉。

人間万事塞翁が馬
いいことがあってもあまり舞い上がらず、悪いことがあってもなるべく落ち込まないように生きたいものです。

天網恢々疎にして漏らさず
まあ、ニュースを見てたら実感しますが、漏れてるのもけっこうあるような気もしますけどね(笑)。

ここらへんまでは有名な故事成語や格言。

我以外、皆我が師なり
宮本武蔵の吉川英治氏の言葉らしいです。読んで字の如し。

楽しむことが大切だよ。楽しいと言うことは、自分にとって正しいことをしているということだからね。
ミッキー・ムニョスというレジェンド・サーファーの言葉。だいぶ前にテレビで見てメモったので、言い回しは違っているかもしれないけど、とても好きな言葉。楽しんでますか?

明日やろうはばかやろう!  
Home portさんのブログで見かけた言葉。わかりやすくていい!!

他にもなにか思い出したら追加するかもしれません。

飛騨んじいのお墓の写真をネットで探したけど見つからなかった。
今日はいいお天気になったので、荘川遠征報告がてら撮影してきました。
左が飛騨んじいのお墓、右が勘左衛門さんの石像。

Img 0221

=====以下、説明のパネルから転載=====

都史跡 上木甚兵衛墓および三島勘左衛門石像
 所在 新島新島本村二番地 共同墓地内
 指定 昭和33年10月7日

上木甚兵衛は飛騨高山三ノ町の町名主であったが
領民救済運動を起こし捕らえられた。かれは安永4年
(1775)3月、62歳のとき新島に流罪となって、
寛政10年(1798)8月19日、85歳でこの地で病死した。

三島勘左衛門は上木甚兵衛の二男で、父の流罪後、
その看護を志し、江戸に出て奉行に嘆願、
寛政3年(1791)渡島した。以後8年間父の看病に従い、
のち父の墓と自分の石像を造って離島した。
かれは在島中「天明水滸伝」「伊豆七島風土細覧」を著作した。

石像の高さ90センチメートル、胎内に法華経8巻を納めたという。
石像の首部以上は新に補修を加えたものである。

昭和44年10月1日
東京都教育委員会

新島の獅子木遣りが、10月14日に開催される20回ひだ荘川ふるさと祭りにご招待していただきました。

Pos Fm

飛騨んじいのふるさとで舞う新島の獅子木遣(にいじまのししきやり)
●荘川と新島の縁
飛騨の名主の上木甚兵衛さんは大原騒動の罪を負わされ、安永4年(1775)伊豆諸島(東京)の新島に流刑となりました。
甚兵衛さんは新島の子ども達に「読み・書き」を教え、『飛騨んじい』と慕われ、200年以上たった今でも新島小学校6年生の児童が飛騨んじいの墓守りをしています。

進学堂の前で、当時第3分団長だったかじやベーカリーのあんきに
「いしゃあ、消防団にへーいよ(入れよ)」と、声をかけられたのは、もう20年前のことだったか。

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昔のアルバムから古い獅子の写真を見つけました。
左の提灯の下にいるのが私の祖父です。
この祭りに関しての記録を数年前にホームページに掲載してあったので転載します。

※山本(いちろびー)師匠が役場教育委員会の依頼で執筆したという文献を入手しました。大変貴重で、面白い作品なので、是非このホームページで紹介させて欲しいとお願いしたところ、
「おお、いしがやうだいばすきにしーばいいじゃ。」
との許可が出ましたので、ここに掲載させていただきます。尚、文中下線付きの文字は私がつけた解説や補足です。

新島木遣り獅子  昭和二十五年の例

二十四年十二月一日。あらかじめ各分団(消防団各分団・つい最近まで獅子は消防団から選抜された若い衆によって行われていた。現在は保存会を中心に行われている)から選抜されていた音頭衆(新町部四五六の三個分団)六名と、獅子の舞手十名は川七こと大沼七右衛門家へ集合。師匠大沼音吉翁のもとに早速当日から稽古に入った。当時は歌詞を書きとめることは許されなかった。我々は家で稽古をするためにも
「木遣りの歌詞を(書きとめさせてください)!!」
と云うと、

「歌詞は若松様(獅子の座敷唄)の文句と同じで、極く短いものなのだから、・・・それを延ばし放題延ばして、引っ張り放題引っ張るんだから、歌詞を書いても無駄だ。」
と、頑として許さなかった。

「耳で聞いて腹から声を出すことを会得しなきゃあ駄目だ。」
と、叱責口調でやられて、一言半句も口をはさむことが出来なかった。まして五分団選出の私と、故人となられた相良の寅松氏が最年少だったから、余計口出しは許されなかった。兎に角、

「今、現在の声は地声だから、今の声は出来るだけ早くつぶしてしまえ。」
と言われた。

西の風に向かって木遣りを怒鳴れと言う。
地声は潰すのは早ければ早い程良いと言う。

私は家の中で、まして西風の日では近所が驚くだろうし、濱の森では尚更飛んでもない話、思案の末、黒根まで行った。近頃のように自動車やバイクの時代ではなかったから、西の風の中をヒーキ頭巾に顔を包んで幾晩か通った。稽古を始めて四,五日で声はつぶれたように記憶している。私ばかりでなく、音頭衆全員遅かれ早かれ潰れた。

ものを言うのはお互いヒーヒー声で、ものを言うたびお互いが笑い合ったものだった。

それでも稽古を休むわけにはいかないのだ。休むと分団の役衆が呼びに来るのだから。ずる休みなどもってのほか。雨が降ろうが、西の風だろうが一日も休むことは相ならない。

正月も元日一晩だけがお休みで、二日の晩は怒鳴り初め。明けまして十四、十五日が本番で、本番前が衣装合せと星も凍てつく十三日の夜、神社・赤門前のリハーサル、思い出してもゾットする。今更のように若かったと思う。

 

お宮出

十四日祭禮当日。各分団の音頭衆は

六分団・宮川万之助氏、山本浅次郎氏
五分団・河原寅松氏、私
四分団・前田音松氏、青沼藤一氏の六名
金棒(空欄)
拍子木(空欄)
獅子頭(五分団)植松武夫氏、羽根眞七氏
獅子胴(四分団)(空欄)
獅子尾(六分団)宮川松兵衛氏、梅田(空欄)

新町・原町、両町消防団員勢揃いしたところで宮司、禰宜さんにより雄獅子雌獅子がうやうやしく捧げられて御本殿奥からしずしす出て来て両町の獅子頭を始め獅子衆に手渡される。

万燈、神旗(ししんけん)、諸器揃ったところでお祓いを受けお宮出しの儀も滞りなく・・・

鈴門前=赤門下に勢揃い待機の姿勢に入る。此の階段下オージョウを埋め盡すばかりの人。

村中総出の大祭り。村中総出の大観衆の中で、宮司の合図により金棒・拍子木が鳴り第一声(これを本音頭と云って最高の名誉)この第一声を皮切りとも赤門出しとも云う。雄獅子が第一声(木遣)をあげると、原町部の金棒・拍子木が鳴り雌獅子側の音頭(突っ切り音頭と云う)が第二声をあげる。お互い両町の先陣を切るのだから名誉である反面、緊張も極度に達する瞬間である。

金棒・拍子木の音を交互に渡し乍ら、雄獅子・雌獅子の音頭衆も交互に木遣りを唄って木遣りに起こされた獅子は静々と階段を下り、両側にひしめく老若男女童達のおつむを噛んであげたりしながら社務所へ入り、社務所で一舞する。雄獅子は玄関式台に待機。音頭衆は縁下の犬走り辺に整列し待つ。

若松様木遣り唄を唄い、若松様が終る頃、獅子は宮司の膝の中に頭を載せ、懐かしむような、甘えるような所作をする。

家の主人の膝の中に寝込んだ獅子を起こして、連れ出さなければならない。そこで、金棒拍子木を合図に梃舞(てこまい)木遣を唄う。六人が交互に唄うのだが、もうこれからは、金棒拍子木は一回だけでよい。

両町が舞い終わり社務所を出て、総門(大鳥居)を出るまでは雄雌交互に梃子舞木遣りを唄い続ける。氏子総代長、梅眞宅へ両町共舞入った。両獅子が共に入る場合は雄獅子が優先する。

ここから両町別々になり雄獅子は新町へ、雌獅子は原町へ巡行順路をとる。次に入る家の門口までは獅子も道脚になるので、木遣唄も道唄に替る。この場合、必ず梃子舞木遣りのまま「お太鼓が替ります」と唄って道唄の小車(こぐるま)木遣に替る。こうして有志の個人宅船主網元など、新町部は漁業組合へ、原町部は農業組合へ舞い込む。

漁協では、座敷唄の若松様で組合長(又は組合の代表)の膝へ獅子が寝込んだ折、音頭衆が梃子舞木遣り唄を出す前に組合長は「いらべがしょもん(所望)だーあ」と大声で呼ばなければならない。漁業組合では必ず唄う木遣だが組合長から「いらべがしょもんだーあ」と声がかからないと「いらべ」を唄うわけにはいかないのだ。又この「いらべ」は漁業組合だけの祝唄とされ、漁業組合以外ではどこでもやらない。

そして十四日巡行予定の家を巡り終ると、獅子は時の新町部の頭(消防副団長)梅田四郎右衛門宅へ宿泊した(原町部は本郷与次兵衛だったような気がする)。獅子が宿泊中は各分団から警護の分団員が選抜され、朝まで交代々々に警護した。獅子頭は床の間に安置され、音頭衆は正面座席へ招じられ、本音頭(第四分団)が師匠と副団長をはさみその両袖に、五分団、六分団の音頭衆が並び、順次招かれた親戚やお客様が居並び、音頭衆は下へも置かない最高の接待を受ける。飲みたい思いをさせない。食べたい物は何でも用意し「飲み放題食べ放題の接待と昔からのしきたり」と、聞いてはいたが、その通りのもてなしだった。

私たちには明日(十五日)の巡行がある。考え無しの呑んだり喰ったりと言うわけにはいかない。まして十二月一日稽古を始めて以来正月と言えども獅子が終るまでは、と、師匠から、きつい御法度。とは云うものの、我々も若い者、皆ンな祭気分で盛大にやっているのに、と、少し位はアルコールも入れたが結構自分でブレーキをかけた、と思う。

十五日朝。新町の頭梅田家を出て本日の巡行予定の村内有志宅を巡行し、総門前で新町部と原町部両町の獅子は合流し、体勢を整え、梃子舞木遣りを交互に渡し合い乍ら総門を入り十三燈近くでお名残の木遣りを唄い、お宮入りをして、昨日の朝の位置に整列し、宮司より二日間の村内巡行も滞りなく済んだ挨拶とねぎらいの言葉があり、無事に獅子を納めて一ヶ月半以上にわたる浜ン宮様遷宮祝慶の獅子祭りも目出度く終った。

昭和二十五年正月の十四、十五日の両日のこと。

以前、弊社ホームページに掲載してあった文章を転載します。

新島村教育委員会作成の資料と思われます。


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平成9年12月8日・鈴門出し

獅子木遣

 この獅子舞は、古来から十三社神社に伝わる行事であるが、江戸時代初期に江戸の火消頭が新島に流罪となり、その頃から従来の獅子舞とその歌に、江戸の木遣歌を歌いこんでひとつの形をととのえ、江戸の火消の姿を服装として行うようになったので、これを獅子木遣というようになった。

 元来、獅子舞というと、笛や太鼓の囃子でにぎやかに舞うものが多く、他の地方に伝わるほとんどがそうであるが、新島の獅子舞は、どことなく住時をしのばせるような静かで、高貴な振舞であり、しかも木遣歌によって獅子舞を行うのは全国的に珍しく、貴重な艮族芸能として知られている。

 この獅子は、雌雄二頭になっていて、五人ずつ中に入って舞う。獅子を舞う者を獅子衆といい、その獅子衆の服装は、鉢巻法被(中に入る時は脱ぐ)、腹がけ、紺のももひき、白足袋はだし、腰に「火の用心」の巾着をつける。木遣を歌う音頭衆はそれに扇子をもつ。

 拝殿前の石畳をはさんで一同が整列すると、宮司は本殿の大床から獅子頭をもってきて獅子衆に渡す。榊(おはらいの用具)を持った神職を先頭に、四神旗(青龍=東・朱雀=南・白虎=西・玄武=北・の旗)・獅子二頭・金捧引(錫杖)・拍子木・木遺を歌う入々、総勢七・八十名が行列を整えながら二の鳥居の石段前まで進み、ここで獅子は左ひざを立てて臥す。宮司の合図で、拍子木を打ち、錫杖をならすと音頭の歌がでる。木遣衆がこれに歌を合わせると、二頭の獅子は頭をふりながらゆっくり立って石段を降りる。そして、宮司の家に入って二頭とも交互に舞い、宮司の指示を受ける。

 家に入る時は、先ず雄獅子が下座から入って上座から下がり、そのあと雌獅子が上座から入って下座へ下がる。そのあいだ、舞っていない獅子は庭で臥せて待機している。神の使者としての責任をもった獅子は、その後、一の鳥居まで行き、そこからは、雌獅子が原町(主に本村北部)ヘ、雄獅子が新町(同南部)へとそれぞれ別れ、その年に選ぱれた主な関係者の家に行き、同様のしぐさで舞う。途中で歌う木遣の歌詞は、場所によって異なり、厄除、祝賀、大漁満作などを祈ることが多い。獅子の入った家では、親族が集まってその獅子を迎えたあと祝宴を開き、そこの家の光栄をよろこびあう。

 従来は、その日、獅子は両町の副役(昔は若者組副頭、近年は消防の副団長)の家に一泊し、翌日、関係者の家を舞って再び神社の一の烏居に集まり、雌雄そろって神社に納めていたが、最近ではそれを一日で済ませている。この獅子木遺は、毎年行われるものではなく、国や村の太きな祝い事や神社の社殿完成などを祝って行われる。戦後は、昭和25年の遷座三百年祭と、拝殿の竣工を祝って行われた。その後、東京都の文化財になり、保存継承する必要があるため、12月8日の例大祭のよろこびの行事として、保存をかねて部分的に行われるようになった。最近では、昭和46年・48年に、久しぶりに昔の形を復活して行われた。

 獅子木遣は、新島に伝わる神社の神楽と、さらに本村に伝わる大踊とともに、昭和33年10月7日に東京都の無形民俗文化財・都技芸(郷土芸能)として指定を受け、また、昭和50年11月には都遣府県が無形民俗文化財に指定したものの中から国が特に保存したり、広く公聞する必要のある、全国各地に伝わる重要な民俗芸能として無形の民俗文化財に選び、その保存経承の責任と重要さはますます大きくなってきた。

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