新島木遣り獅子 昭和二十五年の例

Shishi25

昔のアルバムから古い獅子の写真を見つけました。

左の提灯の下にいるのが私の祖父です。

この祭りに関しての記録を数年前にホームページに掲載してあったので転載します。

※山本(いちろびー)師匠が役場教育委員会の依頼で執筆したという文献を入手しました。大変貴重で、面白い作品なので、是非このホームページで紹介させて欲しいとお願いしたところ、

「おお、いしがやうだいばすきにしーばいいじゃ。」

との許可が出ましたので、ここに掲載させていただきます。尚、文中下線付きの文字は私がつけた解説や補足です。

新島木遣り獅子  昭和二十五年の例

二十四年十二月一日。あらかじめ各分団(消防団各分団・つい最近まで獅子は消防団から選抜された若い衆によって行われていた。現在は保存会を中心に行われている)から選抜されていた音頭衆(新町部四五六の三個分団)六名と、獅子の舞手十名は川七こと大沼七右衛門家へ集合。師匠大沼音吉翁のもとに早速当日から稽古に入った。当時は歌詞を書きとめることは許されなかった。我々は家で稽古をするためにも

「木遣りの歌詞を(書きとめさせてください)!!」

と云うと、

「歌詞は若松様(獅子の座敷唄)の文句と同じで、極く短いものなのだから、・・・それを延ばし放題延ばして、引っ張り放題引っ張るんだから、歌詞を書いても無駄だ。」

と、頑として許さなかった。

「耳で聞いて腹から声を出すことを会得しなきゃあ駄目だ。」

と、叱責口調でやられて、一言半句も口をはさむことが出来なかった。まして五分団選出の私と、故人となられた相良の寅松氏が最年少だったから、余計口出しは許されなかった。兎に角、

「今、現在の声は地声だから、今の声は出来るだけ早くつぶしてしまえ。」

と言われた。

西の風に向かって木遣りを怒鳴れと言う。

地声は潰すのは早ければ早い程良いと言う。

私は家の中で、まして西風の日では近所が驚くだろうし、濱の森では尚更飛んでもない話、思案の末、黒根まで行った。近頃のように自動車やバイクの時代ではなかったから、西の風の中をヒーキ頭巾に顔を包んで幾晩か通った。稽古を始めて四,五日で声はつぶれたように記憶している。私ばかりでなく、音頭衆全員遅かれ早かれ潰れた。

ものを言うのはお互いヒーヒー声で、ものを言うたびお互いが笑い合ったものだった。

それでも稽古を休むわけにはいかないのだ。休むと分団の役衆が呼びに来るのだから。ずる休みなどもってのほか。雨が降ろうが、西の風だろうが一日も休むことは相ならない。

正月も元日一晩だけがお休みで、二日の晩は怒鳴り初め。明けまして十四、十五日が本番で、本番前が衣装合せと星も凍てつく十三日の夜、神社・赤門前のリハーサル、思い出してもゾットする。今更のように若かったと思う。

 

お宮出

十四日祭禮当日。各分団の音頭衆は

六分団・宮川万之助氏、山本浅次郎氏

五分団・河原寅松氏、私

四分団・前田音松氏、青沼藤一氏の六名

金棒(空欄)

拍子木(空欄)

獅子頭(五分団)植松武夫氏、羽根眞七氏

獅子胴(四分団)(空欄)

獅子尾(六分団)宮川松兵衛氏、梅田(空欄)

新町・原町、両町消防団員勢揃いしたところで宮司、禰宜さんにより雄獅子雌獅子がうやうやしく捧げられて御本殿奥からしずしす出て来て両町の獅子頭を始め獅子衆に手渡される。

万燈、神旗(ししんけん)、諸器揃ったところでお祓いを受けお宮出しの儀も滞りなく・・・

鈴門前=赤門下に勢揃い待機の姿勢に入る。此の階段下オージョウを埋め盡すばかりの人。

村中総出の大祭り。村中総出の大観衆の中で、宮司の合図により金棒・拍子木が鳴り第一声(これを本音頭と云って最高の名誉)この第一声を皮切りとも赤門出しとも云う。雄獅子が第一声(木遣)をあげると、原町部の金棒・拍子木が鳴り雌獅子側の音頭(突っ切り音頭と云う)が第二声をあげる。お互い両町の先陣を切るのだから名誉である反面、緊張も極度に達する瞬間である。

金棒・拍子木の音を交互に渡し乍ら、雄獅子・雌獅子の音頭衆も交互に木遣りを唄って木遣りに起こされた獅子は静々と階段を下り、両側にひしめく老若男女童達のおつむを噛んであげたりしながら社務所へ入り、社務所で一舞する。雄獅子は玄関式台に待機。音頭衆は縁下の犬走り辺に整列し待つ。

若松様木遣り唄を唄い、若松様が終る頃、獅子は宮司の膝の中に頭を載せ、懐かしむような、甘えるような所作をする。

家の主人の膝の中に寝込んだ獅子を起こして、連れ出さなければならない。そこで、金棒拍子木を合図に梃舞(てこまい)木遣を唄う。六人が交互に唄うのだが、もうこれからは、金棒拍子木は一回だけでよい。

両町が舞い終わり社務所を出て、総門(大鳥居)を出るまでは雄雌交互に梃子舞木遣りを唄い続ける。氏子総代長、梅眞宅へ両町共舞入った。両獅子が共に入る場合は雄獅子が優先する。

ここから両町別々になり雄獅子は新町へ、雌獅子は原町へ巡行順路をとる。次に入る家の門口までは獅子も道脚になるので、木遣唄も道唄に替る。この場合、必ず梃子舞木遣りのまま「お太鼓が替ります」と唄って道唄の小車(こぐるま)木遣に替る。こうして有志の個人宅船主網元など、新町部は漁業組合へ、原町部は農業組合へ舞い込む。

漁協では、座敷唄の若松様で組合長(又は組合の代表)の膝へ獅子が寝込んだ折、音頭衆が梃子舞木遣り唄を出す前に組合長は「いらべがしょもん(所望)だーあ」と大声で呼ばなければならない。漁業組合では必ず唄う木遣だが組合長から「いらべがしょもんだーあ」と声がかからないと「いらべ」を唄うわけにはいかないのだ。又この「いらべ」は漁業組合だけの祝唄とされ、漁業組合以外ではどこでもやらない。

そして十四日巡行予定の家を巡り終ると、獅子は時の新町部の頭(消防副団長)梅田四郎右衛門宅へ宿泊した(原町部は本郷与次兵衛だったような気がする)。獅子が宿泊中は各分団から警護の分団員が選抜され、朝まで交代々々に警護した。獅子頭は床の間に安置され、音頭衆は正面座席へ招じられ、本音頭(第四分団)が師匠と副団長をはさみその両袖に、五分団、六分団の音頭衆が並び、順次招かれた親戚やお客様が居並び、音頭衆は下へも置かない最高の接待を受ける。飲みたい思いをさせない。食べたい物は何でも用意し「飲み放題食べ放題の接待と昔からのしきたり」と、聞いてはいたが、その通りのもてなしだった。

私たちには明日(十五日)の巡行がある。考え無しの呑んだり喰ったりと言うわけにはいかない。まして十二月一日稽古を始めて以来正月と言えども獅子が終るまでは、と、師匠から、きつい御法度。とは云うものの、我々も若い者、皆ンな祭気分で盛大にやっているのに、と、少し位はアルコールも入れたが結構自分でブレーキをかけた、と思う。

十五日朝。新町の頭梅田家を出て本日の巡行予定の村内有志宅を巡行し、総門前で新町部と原町部両町の獅子は合流し、体勢を整え、梃子舞木遣りを交互に渡し合い乍ら総門を入り十三燈近くでお名残の木遣りを唄い、お宮入りをして、昨日の朝の位置に整列し、宮司より二日間の村内巡行も滞りなく済んだ挨拶とねぎらいの言葉があり、無事に獅子を納めて一ヶ月半以上にわたる浜ン宮様遷宮祝慶の獅子祭りも目出度く終った。

昭和二十五年正月の十四、十五日の両日のこと。

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