また一つ役が終わって
進学堂の前で、当時第3分団長だったかじやベーカリーのあんきに
「いしゃあ、消防団にへーいよ(入れよ)」と、声をかけられたのは、もう20年前のことだったか。
新島には消防署が無いので、いざ火災というときには消防団が出動する。
現在では町会ごとに本村6個、若郷2個の8つの分団でつくられていて、青年団的な側面もある。
島の男性は成人して働き出すと、近所に住む分団長に勧誘されてめでたく入団という運びになる。
平和でのほほんとした島なので、火災や捜索で狩り出されるのは年に一度あるかないか。
とはいえ、誰も望まないのに実際にそういう出来事は起こるわけで、そんなときのために年に何回か訓練がある。
有事の際には所属団員一同、昼間は仕事を放り出し、夜中には眠い目をこすって現場に向かう。
村名変更・町会再編の前、わが家が新島村本村1丁目でなく、新島本村の3区だったころには、まだ全分団には積載車がそろっていなかった。
所属団員の少ないところを優先にしているということで、わが第3分団は比較的人数が多かったため後回しにされて、入団して最初の数年間はリヤカーにポンプ一式を積んで出動していたのだった。
訓練がちょっと離れた高校グラウンドで行われる・・となると、集合時間の30分前には出動しないと間に合わない。
途中で他の分団の積載車から冷やかされながらリヤカーを引くのは嫌だったなあ。
遠回りして坂道を行くか、グラウンドの階段を担いで上るか・・なんて、分団長に指示を仰いでね。
結局10人位で重たいポンプを積んだリヤカーを担いだ。変に面白くて、汗だくで笑った。
観光客がたくさんいた10年ほど前までは、夏にも夜警があった。
クソ暑い夏の夜に、花火で火事を起こさないでね・・・と、優しく巡回するのだけれど、いきがった酔っ払いにからまれたりしたのも今となっては思い出話だ。あんなにお客さんのいる夏はもう来ないんだろうか。
夏といえば思い出すのは平成12年夏の群発地震。お客さんが一人もいない、閑散とした羽伏の浜を思い出す。
今は2個分団ずつしか披露しない出初式の消防操法も、平団員の時には毎年全分団で競っていて、暮れには練習や冬季夜警も重なって忙しかった。
出初式には分団長宅を詰所にして、新年の酒宴を開く。カシキ(料理番)もやったし、会計をやったこともあった。
出初式が終わると、成人の日の駅伝大会。
やはり若い頃には年下から順に選手に選抜されて走った(走らされた)。
何年か選手をやって、若郷までの旧コース、下り以外は全コースを走った。
初めて旧2区間(焼却場から宮工プラントまでの長い上りコース)の選手になったときには、前の晩に農場で火事があって、夜中の12時過ぎに出動して明け方の4時半頃までごたごたやったのに、普通に駅伝大会が開催されて、寝不足で心臓がバクバクなったけど完走できた。若かったんだな。
盆にお寺、暮れに神社と祭事を仕切るのも消防団の役目で、どっちも忙しい時期に仕事の都合をつけて参加するのは、自営業者の身としては大変だった。師走の祭りには早朝のノボリ上げなどもあって、仕込のスケジュールを組むのが一苦労だったし。
今日の辞令交付式をもって、20年間の消防団生活も終了する。
終わってしまえば意外と短かった20年間かな。
一緒に退団する皆さんもご苦労様でした。
みんな別々の場所で、同じ時間を共有していたんだなあ。
今後はやじ馬にしかなれないけど、現役団員の皆様をいつも応援しています。
出動する機会は無い方がいいけれど、頑張れ、新島消防団。
もう酒を見たくねー!
>yojibay
そうは言っても呑んでしまうところがこわいね。
お疲れさんでした。
20年間・・・長い間お疲れ様でした。
これからは、防災無線を気にしなくてもいい
生活となりますね。
>あらむしゃアニキ
ありがとうございます。
団服も早々に返却いたしました。
だからといって、暇にはならないんですけどね。
長きにわたりお疲れさまでした。
俺も後二年、義務を果たそうと思います。
今日、滞り無く4分団詰め所の引っ越しが終わりました。
「あぁ、始まるんだなぁ」といった心境です。
結構、なんもわからないんですが、だとしてもやり遂げようと思っています。
活躍する場面が無い事を祈ってますが、そういう訳にも行かないのでしょうね。。。
怒濤の飲み会週間が終わりましたなぁ〜
肝臓は『沈黙の肝体』ですから、
いたわりながらお付合い致しましょう。(共にね)
>まーちゃん
分団長、大変ですが頑張ってください。応援しています。
>ポール
やー、やっと酒が抜けます。
先週はウコンめちゃめちゃ飲みましたよ。
肝臓を休めて、また飲みましょう。
お疲れさまでした。
今日、前4分団長に会ったら、
「俺も思い出に団服撮影しとけば良かったなあ」
と、言ってました。
思い出は心にしまって置くもんだぜ。